松村春繁は明治38年4月1日、高知県香美郡香北町谷相に、栄馬、芳野の次男として生まれた。僻地と言われている高知県の中でも一段と不便な山中の寒村で、家は林業と農業を兼ね、豊ではないが堅実な暮らしであった。しかし、松村が小学校を終えるころ、父は山を降りる決心をした。平野部に出て農業一本にしぼることと4人の子供たちの教育のことも考えたためらしい。山林、田畑を処分した金で南国市大篠に農地を買うと、松村一家は先祖伝来の土地を離れた。
百姓をしながらの勉学、勉学しながら今までとは違った広い社会で経験。優れた頭脳と卓抜した行動力を持つ松村少年は、成長するにつれ地域の青年たちのリーダー格となり、やがて大篠地区の青年団長として活躍するうちに、貧しい農民の代表として地主たちと対決するようになる。そして、20歳すぎから無産運動に入り、安部磯雄が社会民衆党を結成するとすぐに参加した。昭和26年から42年までの4選16年間、高知市長をつとめた氏原一郎もいっしょに入党したが、以後二人は刎頚の友人となる。戦後、氏原が総同盟高知県連の委員長になったときは、松村も書記長に選ばれたが、氏原が社会党高知県連の委員長をすれば、松村も書記長になるといった具合で、二人の名コンビぶりは、高知県内ではつとに有名であった。
昭和22年4月、革新候補乱立のため松村は敗れはしたものの、初の参議院地方区選挙で3万票の得票があった。その彼が8年後の昭和30年、南国市の市会議員選挙に立候補して、わずか4票という前代未聞の得票で惨敗したのである。原因ははっきりしていた。彼はアルコールにおぼれており、選挙期間中も飲んではぶっ倒れ、飲んではぶっ倒れの繰り返しで、自分が立候補していることすら忘れていたのだ。
若いころから酒豪で有名であったが、戦時中無産運動が非合法化され、止むなく釜山の船会社で働いているうちに、ひまにまかせて昼酒を飲むようになっており、終戦時にはすでにアルコール依存症になっていたのだ。だから、参議院選の敗因の一つに、酒の問題もあったのである。その酒のために、松村は友人たちにも、党にも見捨てられた。しかし、氏原だけは、何とか親友であろうと努力していた。
最後の友人である氏原は、誠心誠意、松村を説得した。彼の革新政治家としての優れた能力だけではなく、魅力あふれる人間性を取り戻させたかったのだ。市長としての繁忙な職務の中で無理に時間を作って、酒を止めるように松村を説いた。しかし、松村は氏原の忠告を無視し、逆に酒代をせびったのである。氏原は松村を説得することをあきらめた、しかし、見捨てたわけではなかった。
氏原は市長室の机の一番上の引出しに、百円札を毎朝1枚入れた。公務に追われている氏原は、これ以上、松村のために時間を割くことができなかったので、「おれのやる百円以上は、絶対飲むなよ」と厳重に申し渡した。松村は約束した。
氏原はかっての革新の旗頭が、あちこちと酒代をせびってまわる惨めさが、これで何とか防げそうだ、と思ったらしい。当時の百円では、焼酎なら4,5杯飲むことができた。
南国市の自宅から、松村は毎日オンボロ自転車で高知市役所に通った。市長室の机の引出しにある百円のためである。しかし、ついに幻覚が出るまでに病状が悪化した。昭和25年ころからアルコール依存症の治療を行っていた下司孝麿を、南国市の内科医の紹介で知った松村の妻は、早速高知市へ相談に出向いた。親切にも下司は、松村の家まで往診に来てくれた。だが、松村には酒をやめる気は毛頭なく、入院治療を勧める下司を無視した。
やがて、自衛隊と機動隊が合同して自分を攻めてくると言う壮大な幻覚が出、押入れに入って必死に防戦すると言うすさまじい状態になった。その上、高熱を発して意識が混濁する「しんせんせんもう」という重度の症状が出た松村は、入院せざるを得なくなった。主治医はもちろん下司であった。
退院しては飲み、退院しては飲みの繰り返しで、松村は合計5回入院している。その最後の入院のとき、下司の目に憐れみと蔑みの色を見て、松村は突然、本気で酒をやめる気になったという。松村の人柄を見込んで治療に全力を尽くした下司の挫折感が、松村の優れた人間性と、鋭い感性に敏感に反応したのだろう。
昭和32年夏、最後の退院をした松村は、教員である妻のヒモのような暮らしを変えることにした。そうしないと、酒をやめつづけられないと思ったからだ。数ヶ月の断酒の後、高知若松港にやってきたのは、知人である宮地海運の社長の仕事を手伝うためであった。釜山時代の経験があったからである。
このころの内航海運業界は、すでに落日を予感するものがあった。
宮地海運の仕事はひまそのものであった。その上、酒を断っているので、時間はいくらでもある。別にこれといった趣味を持たない彼は時間を持て余した。また、まだまだ飲みたいという気持ちと闘わねばならず、それらを解決する方法として、松村は日記を克明につけ始めた。やがて、彼の日記帳はざんげ録に変わった。
日記帳代わりの大学ノートに向かっていると、生きるも地獄、死ぬも地獄というついこの間までの生活が、現実のもののように浮かんでくる。3度目の自殺に失敗し、臨終の母の枕辺で、悔悟の涙とともに差し出した手を拒否されたことが、昨日のことのように思われた。松村はそうした過去を、ただひたすらに書きつづった。それが反省につながり、その反省のうめきを書き続けるうちに、不思議な安らぎが生まれた。そのため、一人でも何とか断酒が続いた。
昭和33年11月、高知市の中沢薬業の社長であり、敬虔なクリスチャンである中沢寅吉は、高知刑務所の受刑者のために、日本禁酒同盟の小塩完治を招いた。それを知った下司は、自分の患者や退院者のためと、一般市民にも酒害知識を広げる意図もあって、中沢に頼んで小塩の講演会を開催した。
日本禁酒同盟は長い歴史を持ち、熱心な活動を続けていたが、この世から酒をなくすという廃酒思想を持っていたので、広く社会に受け入れられていなかった。しかし、下司の狙いは、小塩が、A・Aの実情に詳しいので、酒の存在を認めながら自分にとっての酒を否定する、禁酒同盟の運動とは異質の断酒運動の話を引き出したかったのだ。
11月9日の小塩の講演会には、一般市民の参加は比較的多かったものの、酒害者は松村と小原のたった二人でしかなかった。しかし、この講演会は失敗ではなかった。講演が終わった瞬間、小塩の話に感動し、下司の真意に敏感に反応した松村が、「このまま解散してしまうのは残念だ。この講演会を有意義にならしむるために、この場で断酒会結成準備委員を決めましょう」と提案した。この提案は受け入れられ、準備委員には、松村、小原の二名の酒害者と下司、中沢、泰泉寺、川淵、青木の5名の関係者がきまった。この日が事実上の高知県断酒新生会の発足といえる。
高知県断酒新生会は全国にさきがけて、昭和33年11月25日、正式に発会した。会員は松村と小原の二名のみである。そして、翌12月には池添、浜田の2名が参加した。かなりわびしい旅立ちである。しかし、下司以下の強力なバックアップもあって、何と70余名の会員を獲得している。にもかかわらず、松村は強い挫折を味わっていた。
挫折の原因は、34年度入会者が誰一人として酒をやめないのである。結果として、その年の暮れにはほとんど全員が脱落してしまったのだ。松村の悩みは深かった。一人で一年半断酒できていた自分の体験からすると、多くの仲間がおり、集団でやめていく方がずっとやさしいはずであったのだが。
僻地の小学校苦労しながら送金してくれる妻、昨年生まれた孫ほども年齢が開いている娘の、すくすくと成長する姿を見るにつけ、夫として、父親としての責任を、松村は痛感するようになった。しかもそのころ、若松港の海運会社から就職の話が出た。宮地海運が廃業してから1年、松村にはのどから手の出る話であった。
サラリーマンをやりながら、妻子と幸せな生活を送りながら、のんびり断酒運動を続ければよい、と松村は迷った。しかし、妻は彼のこの考え方を一蹴した。一つは現状でも幸せであること、一つはそんなに負担が重いと考えていないこと、もう一つは、あなたにとって断酒会がこの世で一番大切なものであること。妻の方が彼自身より彼を知っていた。結局松村は、安息よりも闘いの方を選んだ。二度間違いを犯すのは恥じである。松村は脱落の原因を徹底的に考えた。
松村がまず最初にやったことは、リーダーシップの変更である。民主的な運営を目指していたが、入会したばかりの会員は、アル症独特の自己中心的、他罰的な性格が改善されていないので、百家争鳴、けんけんがくがく、仲間を傷つけ、自分も傷つくという傾向が強かった。そしてそれが、脱落の原因になっていたのだ。松村は、一時的にワンマン的リーダーになろう、と決心した。「しばらく私の言う通りにして欲しい。私についてきてください」と会員たちに告げた。
次いで例会の中味の変更である。断酒の決意、将来への抱負ばかりを、堂々と論じている会員ほど脱落が早い。その点、過去のことを思い出し、とつとつと話している会員の方が断酒も長持ちしている。松村がこのことに気づいたのは、あのざんげ録を書き続けていたときの経験からであろう。「体験発表に始まり体験発表に終わる」という現在の断酒会の原則は、このころすでに確立されたのである。
その次は、家族の協力の問題である。明治、大正初期生まれの会員が多く、彼等は「自分の不始末は自分で決着をつける」と宣言し、また実行していた。つまり、夫婦出席などめずらしいことであった。しかし、Оという特別に他罰的な会員の妻が、黙々と夫に従って例会に出席し、誰が考えても一番早く脱落しそうなОが、きちんと断酒しているという事実を、松村は素直に受け止めた。何故なのかはすぐに分からなかったが、会員に家族同伴出席を促した。結果として、昭和35年入会者の断酒成功率は、現在までの歴史の中で一番高い。
昭和36年、松村は再びリーダーシップを変更する。ワンマンから元の民主的なリーダーへである。35年度の入会者たちが順調に成長し、彼等の合議制による運営の方が、断酒会活動にとってより効果がある、と判断したからだ。グループ・カウンセリング理論などまったく知らない彼が、状況に応じた正確な対応ができたのは、やはり、彼の人柄と洞察力の深さにあると思う。
同年11月、下司が主宰する高知アルコール問題研究所が新聞「断酒」を発刊するとともに、松村の忙しさは頂点に達した。新聞の編集に携わっていた彼に、全国からの酒害相談が相次ぎ、また下司からの紹介もあって、行動半径は全国に広がることになった。電話や手紙での指導を依頼されたとき、松村の性格からすると、何とか直接会って話し合いたかったからである。
酒におぼれていたころやっていた質屋かよいが復活した。妻が苦労してつくった彼の背広が、主たる質草である。夏、合、冬の背広は、その季節にはずれて入質された。往復の汽車賃だけを作っての全国行脚である。道中の汽車の中、駅のベンチでは、寸刻を惜しんで新入会員への励ましの葉書を書いた。宿泊費を持たぬ彼の寝場所はもっぱら夜汽車の中で、ときには、相談を受けた酒害者の家で泊まった。強行軍であったが苦痛はなかった。喜びがあり、明るい希望が芽生えていた。それは、全国津々浦々に断酒ネットワークをつくろう、という壮大な夢である。
昭和38年11月10日は松村にとって、生涯もっとも輝いた日である。この日、全日本断酒連盟が高知市で結成されたのだ。昭和33年12月5日に、山根勝弘、大野徹らを中心に発会していた東京断酒新生会と、高知県断酒新生会のたった二つの会の連合であり、全日本と称するには恥ずかしい規模のものであったが、全国行脚で得た感触から、名実ともに全国組織にする自信があったからだ。
以前にも増したハードな全国行脚が続けられた。相変わらずの鈍行列車で、至るところで途中下車しては、酒害相談に応じ、断酒会結成を促した。人間の体力には限界がある。昭和41年夏、松村はついに倒れた。脳血栓であった。しかし、病状がやや回復すると、主治医の下司や会員の制止するのを振り切って、また夜汽車に揺られていた。
前述の昭和44年秋の全国大会後、松村の病状は徐々に悪化していった。同年12月25日、高知県断酒新生会の忘年会が開催される日の午後、筆者は松村から電話をもらった。「久しぶりでみんなの顔を見たいので迎えにきて欲しい」と言う。しぶしぶながら下司の病院に迎えにいった筆者は、松村が全国大会の日より元気そうなのでほっとした。
会場にも杖をついて一人で入った。しかし、通路の中ほどで不意によろめいた。側にいた筆者と会員の一人が思わず手を差し出したとき、低いが鋭い口調で、「神も仏もないのか!」とうめいた。瞬間、筆者ははっとした。松村は特定の信仰を持っていなかったが無神論者ではない。自分なりに己の生きざまを般若心経に映して、常に反省していた人間である。断酒会活動を通して、それなりの死生観を持っていた人間である。不遜ともとれるこの言葉には、松村の断酒運動に対する情熱のすべてが投影されていたと思う。
組織の拡大、断酒理念の確立、アルコール依存症に対する社会の偏見、誤解の是正。まだまだやるべきことが山積みされているのに、思い通りに動かないからだ。この言葉には、松村の無念さが滲み出ていた。
その日から35日後、日本の断酒運動の先駆者は逝った。
小林哲夫著 (至文堂『現代のエスプリ』より転載)