1号議案 | 規約の改正=原案修正可決 |
2号議案 | 大会規定=可決 |
3号議案 | 理事会決定=可決 |
4号議案 | アルコール中毒対策国際総局加盟の件=可決 |
5号議案 | 組織拡大強化に関する件=可決 |
6号議案 | 連盟高知分室の確認の件=可決 |
7号議案 | 日本精神衛生連盟加盟の件=可決 |
8号議案 | 次期理事会開催の件=静岡市にて開催に決定 |
9号議案 | 世界アルコール中毒政策会議に代表派遣の件 =全断連副会長・岡田十三日を派遣と決定 |
10号議案 | 全断連の財団法人申請の件=可決 |
11号議案 | 共同募金配分要求及び酒税を酒害者救済に一部還元要求の件=可決 |
断酒運動は平和と幸福の聖なる闘いである。この運動の重要性はもはや議論の余地はなく、ただ力強く前進するのみである。
我国における断酒運動は米国のAA日本版と称されているが、必ずしもAAの直訳的形態であってはならない。
その意味において、本連盟参加団体は明治時代からの禁酒会理論に修正を加え、体質の改善、構造改革に着々進みつつあるのは慶賀の至りである。また、会の結成から断酒会方式でスタートした団体もある。名称、理論、形態に多少の差異はあっても、「酒害を自覚し断酒の決意に燃ゆる」共通の一点には何らの異なるところなく、断酒の大目的のため前進する全国の断酒同志の尊い姿こそ、尊敬と祝福を送る事を惜しまない。
本連盟は昨年11月10日発足し、日時まだ浅く、全国組織の一角に第一歩を印したにすぎない。従って本連盟の任務と責任の重大性を痛感すると共に、前途は必ずしも楽観を許さない困難な幾多の試練を経て、連盟の全国統一路線を前進する事を覚悟しなければならない。
連盟の運動は、加盟団体と常に緊密な連携の下に、断酒運動における共通の目的完遂のため、積極果敢に運動を展開しなければならない。連盟はあくまで参加団体の自主性を尊重することを前提として、各団体独自の持つ、断酒指導育成発展には最善の努力と協力をしなければならない。
焦眉の急を要する任務は、全国各地に散在する反アルコール団体及び断酒実行の人々に積極的に働きかけをなし、連盟参加を要請して、もって名実共に全国統一組織を最大限にまで拡大する事である。
この目的が完遂した時こそ、本連盟が社会及び人類に対し、救世的、歴史的任務に就く時である。この運動は宗教的偏見、一党一派の政治的動きに迷わされてはならない。超然として酒害を人類から排除し、酒に泣き、酒の恐怖下に悲劇の日常生活を送る人々を解放することである。
この運動の達成には多大の犠牲と奉仕が要求されるので、各団体及び他人の尊い協力と支援を得て、初めて目的に到達する事を確信する。
かかる理論的基礎の上に、加盟団体と連盟の間に、日常絶えず情報の交換、資料の提供、断酒運動の全国的、地域的実践状況の分析、研究、機関紙の最大限利用等、連盟本部を軸に活発な運動が展開されなければならない。連盟本部はこれらの貴重な断酒運動に関する情報、資料等を加盟団体に流し、連盟の生命である全国横の連絡機能の発揮に全努力を傾注し、統一団体の主体性実力を涵養しなければならない。
以上の様に理論的、実践的基礎の上に、昭和39年度断酒運動基本方針を樹立するものである。
39年 3月に結成された静岡県断酒互助会(会長鷲山純一)が40年 4月 1日、八丈島に断酒道場を開設。道場長に児玉正孝。43年 1月に閉鎖したが、44年 4月には連盟顧問・中村弥次郎(和歌山市・中村化学社長)の寄贈で、和歌山県由良町白崎海岸に和歌山断酒道場を開設。ここでも児玉が道場長となった。児玉亡きあと、上村千賀志が道場長となり現在に至っている。
39年 4月 5日に高知県断酒新生会の家族会が主となって結成。父親の酒のために暗い生活を強いられた子供達の将来を心配し、明るく伸び伸びした遊びを主体にした子供会。毎月集まることは母親にとって不可能であるため、春、夏、冬休みの期間に集会を持った。
40年 9月、高知県断酒新生会主催の第1回断酒学校が高知市の吸江禅寺で3日間開催。参加39名。以後毎年春秋2回(昭和61年より春1回に変更)開かれ、600名を越す参加があり、現在は「松村断酒学校」と呼ばれている。
その後3日間開催の断酒学校は、山陰断酒学校、北海道大雪断酒学校、近畿ブロック断酒学校が開校し現在に至っている。
松村初代全断連会長は就任直後から全国行脚に旅立ち、各地の酒害者に断酒会結成を呼びかけた。その結果、約2年後の40年ごろには、室蘭、仙台、茨城、横須賀、岐阜、滋賀、大阪、岡山、広島、呉、鳥取、島根、山口、香川、徳島、北九州、久留米に続々結成された。
41年 5月、鳥取、島根、岡山の3県断酒会が米子市で交歓会を開催、ブロック大会の先駆けとなった。各地に断酒会が増えるにつれて相互の交流が盛んになり、現在は全国大会に次ぐものとして毎年1回、北海道、東北、関東、中部、北陸、近畿、中国、四国、九州の9地区でブロック大会が開かれている。
41年 5月、鳥取、島根、岡山の3県断酒会が米子市で交歓会を開催、ブロック大会の先駆けとなった。各地に断酒会が増えるにつれて相互の交流が盛んになり、現在は全国大会に次ぐものとして毎年1回、北海道、東北、関東、中部、北陸、近畿、中国、四国、九州の9地区でブロック大会が開かれている。
41年11月、第3回全国大会が東京・神田の学士会館で開かれ、約400人が参加した。第2回までは高知で開かれたため、初の首都開催実現として行政、医療関係、マスコミを始め、一般社会から大きな関心が集まった。第4回以降は岡山を皮切りに、全国主要都市で順次開催され、第26回(平成元年)の大阪大会の参加者は7,500人を数えた。
回
|
開催地
|
開催年
|
回
|
開催地
|
開催年
|
回
|
開催地
|
開催年
|
1
|
高知
|
昭和38年
|
18
|
名古屋
|
昭和56年
|
35
|
旭川
|
平成10年
|
2
|
高知
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40年
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19
|
和歌山
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57年
|
36
|
神奈川
|
11年
|
3
|
東京
|
41年
|
20
|
福島
|
58年
|
37
|
福岡
|
12年
|
4
|
岡山
|
42年
|
21
|
岡山
|
59年
|
38
|
大阪
|
13年
|
5
|
静岡
|
43年
|
22
|
長崎
|
60年
|
39
|
埼玉
|
14年
|
6
|
高知
|
44年
|
23
|
札幌
|
61年
|
40
|
愛知
|
15年
|
7
|
北九州
|
45年
|
24
|
三重
|
62年
|
41
|
京都
|
16年
|
8
|
東京
|
46年
|
25
|
広島
|
63年
|
42
|
札幌
|
17年
|
9
|
広島
|
47年
|
26
|
大阪
|
平成1年
|
43
|
広島
|
18年
|
10
|
大阪
|
48年
|
27
|
京都
|
2年
|
44
|
仙台
|
19年
|
11
|
横浜
|
49年
|
28
|
新潟
|
3年
|
45
|
滋賀
|
20年
|
12
|
札幌
|
50年
|
29
|
奈良
|
4年
|
46
|
岡山
|
21年
|
13
|
高松
|
51年
|
30
|
大分
|
5年
|
47
|
和歌山
|
22年
|
14
|
福岡
|
52年
|
31
|
鳥取
|
6年
|
48
|
長野
|
23年
|
15
|
高知
|
53年
|
32
|
兵庫
|
8年
|
49
|
兵庫
|
24年
|
16
|
静岡
|
54年
|
33
|
徳島
|
8年
|
50
|
沖縄
|
25年
|
17
|
松江
|
55年
|
34
|
熊本
|
9年
|
51
|
釧路
|
26年
|
44年 6月、連盟の全国組織活動の拠点として東京・目白に事務所を建設するために、全国の断酒会員や協賛者に呼びかけて募金が始まった。運動は8年を経て結実し、52年 7月着工、同10月に完工。披露式では建設に終始一貫して協力してくれた下司孝麿に感謝状を贈った。
北九州断酒友の会(会長・末永豊紀)が41年 5月に第1回酒害者指導講演会を開催。同年 9月、岡山断酒新生会(会長・山方辰三郎)では第1回酒害研修会。次いで静岡県断酒会主催による第1回酒害者研修会が44年 6月に藤枝市で開かれた。以後各地で研修会、講習会、講演会が開かれ、酒害の啓発、酒害相談の窓口を拡げてきた。
45年 1月30日、全断連生みの親であり、連盟初代会長の松村春繁が脳軟化症悪化のため永眠。65歳であった。同年 2月 2日、高知市吸江禅寺で連盟葬を挙行、新聞断酒は、「巨星墜つ!」の見出しで業績をたたえた。